Photo:谷岡康則 Yasunori Tanioka
「カタログ刊行によせて」 和田みつひと
1984年の多摩美術大学入学前、高校三年生の時に見た絵画で、今でも印象深く憶えている作品があります。それは、日本画家の加山又造が新宿・高層ビル街の雪景色を屏風絵の形式で描いた水墨画です。水墨画といえば16世紀の日本で描かれた長谷川等伯の「松林図屏風」のように自然の風景を描くものだと思っていた私には、東京のビルが立並ぶ雪景色を水墨画で描いていることが、新鮮に思えたのです。この屏風絵と出会った体験が後に、私の作品コンセプトを考えるきっかけともなりました。私自身の制作を振り返り、この体験を考えてみたいと思います。
97年頃より私は、画廊や美術館、喫茶店で、それらの建築物がすでにもつ構造や機能を前提にしながら、その建築物のガラス面にポリ塩化ビニールフィルムを貼ることや、床や壁面に蛍光色を塗るという最小限の操作を加えることによって、場所と強く関わるインスタレーション作品を発表しています。作品の構想の始まりは、初めて作品となる場所に立った時に思い浮かんだ、ひらめきに近い何かです。この何かに、色と形を与えることの第一歩は、作品となる場所の特徴を見つけ出すことです。その空間の内部にある、その場所の建築的特徴を探しだすことによって私は、その空間の固有性を成立させることをめざします。
98年以降の作品の多くは、ガラス張りの建築物の内部空間と外部環境を仕切るガラス面に、透明ポリ塩化ビニールフィルムを貼った作品です。作品コンセプトを考える過程で、建築空間と関係し可動的な絵画である日本の障壁画への関心がありました。今日、美術館や博物館で見る屏風絵や襖絵などの障壁画は展示ケースに入れられ、本来あった場所とは切り離され展示されています。しかし、障壁画に描かれている重要な主題である「花・鳥・風・月」はそれが描かれた時代に、ふだん目にする光景であり、環境そのものであったはずです。空間を仮設的に仕切ると同時に環境と深く関わりを持ったものとしてあったのです。ここまで考え私は、長谷川等伯の描いた霧の中に松林が浮かび上がる風景も、加山又造の現代の雪景色も、それぞれの時代の日本人に馴染みのある題材を描きながらも、それらが日常を超えたものとしてこちらに迫ってくることに気づいたのです。
私はポリ塩化ビニールフィルムを用いた作品で、その場所の内部と外部である環境を仕切るガラス面を、いつもと同じ佇まいを見せながらも、光と色の効果により異質な風景を映し出す平面として際立たせることを試みています。仮設的な仕切りであり、周囲の環境と深く関わりながら、日常とは異質なものを映し出すという点で、障壁画の持つ空間感覚と共通する平面を作り出すことによって、そこに一時的に立ち現れる作品を追求しているのです。
和田みつひと『作品集 和田みつひと』和田みつひと、p.1、2004年
和田みつひと-日本画が導く視覚の冒険 テキスト:原田環
和田みつひとは、美術大学での卒業制作を機に1991年より作品制作をはじめた美術家である。日本画を専攻し、膠(にかわ)、アルミ泥、岩絵具などといった日本画に使われる独特な絵具の使い方を学んだ彼は、最初の制作にあたり、まず何を描くかを考えたという。
今年4月に東京都現代美術館および東京芸術大学大学美術館で開催された『再考 近代日本の絵画』のカタログにもあるように、コンセプチュアル・アート以降、絵画は<描く>ものとは限らなくなり、60年代以降は描かない絵画が出現する。つまり、再現的なイメージや、感情や意味を描かない絵画である。その代わりに、絵画とは何かを問い、未来の絵画の追求へと向かうようになったのが現代の絵画である。
そのような状況の中で、和田がまず何を描くか考えたのは重要だ。とにかく何でも描けばいい時代はとっくに終わっていたのだから。そこで彼はカメラを常に持ち歩き、アルバイトの合間を見付けては気に入った風景を撮影することにした。そこから画題をふくらますためだった。彼が撮影したのは主に駅の構内に走るさまざまな送電線やパイプだった。特に総武線と山手線が交差する秋葉原では、下側のホームから見上げると他方のホームが重なる、面白い構図を見付けることができた。
それらをアルミ泥や岩絵具を使って描いたのが最初の作品となった。この絵は今見ると、きわめて平面的で、抽象的である。縦の線と横の線の几帳面な交わりと日本画の絵具がもつ独特な物質感が、作品を切り絵のように見せている。
この制作は彼にとって、日本画とは何かを改めて考察するきっかけとなった。そして、「ものに影がない」「1つの画面の中に複数の視点がある」「日本画独自の絵具を使っている」ことこそ日本画を成立させる必要十分条件であるという考えに至る。本来の日本画にとってかなり重要な要素である、「具象性(=再現的なイメージ)」は排除された。これにより絵画は現代のものとなり、和田は未来の絵画追求の戦列に末席ながら加わることができた。
その後の数年、日本画のポイントをふまえた作品がいくつか制作されるうちに、日本画の絵具を使うことが条件からはずされていく。代わりにボルトやアルミ板といった工業的なマテリアルが使われ、さらにアルミ板を折り曲げたり、組み立てることで平面は立体へと変化した。それらは、ドナルド・ジャッドを連想させもするが、日本画を突き詰めた結果のかたちだった。平面の場合、複数の視点を示すためには線や面を描くしかないが、立体ならば自動的に複数の視点が生まれる。和田の立体は、当初目指した「画面の中に複数の視点がある」ことを、画面の解釈を空間へと拡大した結果なのだ。
作品が立体化することで、次はそれが置かれる環境に和田の視点は移されていく。人は作品が立ち上がると(立体化すると)その回りを歩かずにはいられない。和田は人と作品の関係に興味を抱いた。そして、制作の主題は人と関わることに移行し、パネルを立方体に組み立てたものをいくつか組み合わせ、その間を鑑賞者が往き来する作品が生まれた。
人と関わる作品は、やがて平面や立体自体を消滅させていく。空間そのものをコントロールし作品にしてしまえば、平面も立体も要らないと和田は考えたのだ。そして1997年、ギャラリー現での発表において、彼は何も置かない空間の壁面にただ黄色い蛍光色だけを塗った。空間自体が作品になり、観客は空間に包まれることで作品と対話することになった。
東洋と西洋の遠近法の違いは、そのままものの見方や解釈の違いだが、水墨画にせよ日本画にせよ、東洋の絵画は画面を外から見るのではなく、画面の中に入って絵と一体になることに重点が置かれている。そうすることで、鑑賞者のあらゆる記憶や感覚を呼び起こし全身体的かつ全感覚的な経験として絵画を経験させようとする。和田の作品は、作品としての空間の中に鑑賞者を包み込もうとすることで、東洋画と同じ効果をねらうことになった。
空間は、ホワイトキューブから、喫茶店といった、日常的な場所へと移っていく。それは、部屋全体を絵画で覆う障壁画という日本独自の表現を意識してのことだった。壁や板戸、ふすまや書棚といった住空間のすべてを絵画の支持体とし、生活を彩った障壁画は、まさに人と密接に関係している芸術だ。和田がそこに日本画の神髄を見いだしたとしても不思議はない。
人目につきやすい派手な黄色い蛍光色を使い、ちょっとしたいたずらのように壁にラインや幾何学的な形態を描く97年の喫茶店・西瓜糖における作品群は、一見すると意味不明の不思議な光景として見る人の目に映ったにちがいない。
さらに翌年はもっと決定的な方法を発明した。西瓜糖の入り口と壁面のガラス全体に、透明のポリ塩化ビニールフィルム(以下、フィルム)を貼ることで、空間全体を変化させるだけでなく、そのガラスを通して外の景色の見え方さえも変えてしまうという事態をもたらしたのだ。
これは、画面の中に入ってしまった観客が、画面の中から外を見るような感覚だ。内部であると同時に外部であり、空間のしきりでありながら視覚的にはしきらないガラス自体の特性に、色のついた透過性フィルムを付加することで、観客をとりまく環境に本来の見え方とは違った色彩を呈示する。同時にまた、作品の内と外をもあいまいにする。いや、内も外も作品化してしまうといった方が適切だ。その後、ガラス張りの空間、ギャラリー日鉱での展示で、壁面ガラスの上半分に黄色い蛍光色のフィルムを、下半分に黄色い透明フィルムを貼った作品を発表するが、それは二条城や金閣寺の障壁画を彷彿とさせ、観客を圧倒した。また2003年の藍画廊での展示はギャラリーとオフィスを入れ替えた上、フィルムと照明を使って部屋全体をピンク色の光で包み、その空間で行われているギャラリーの通常業務に観客を立ち会わせるというものだったが、これなどは障壁画の特徴である<しつらえとしての絵画>に対する試みであったといえる。
以後、最新作である水戸芸術館・現代美術センターにおける発表まで、透明あるいは蛍光色のフィルムを使った和田の試みは今も続いている。この秋からドイツ・ベルリンに活動を移す予定でいる彼が、新しい土地で、どのように変化していくのかはわからない。しかし、日本画を足場にしながら、独自のアプローチで繰り返してきた彼の視覚の冒険は、これからも続くだろう。
原田環「和田みつひと-日本画が導く視覚の冒険」『和田みつひと』、和田みつひと、p.13、2004年
『カフェ・イン・水戸 2004』